Alexei Lubimov Piano Recital

2019.9.30 主催:宗次ホール
《オール・モーツァルト・プログラム》
幻想曲 ニ短調 K.397
ソナタ ニ長調 K.311
ソナタ イ短調 K.310
ソナタ ハ長調 K.545
幻想曲 ハ短調 K.396 (シュタードラー補筆)
ソナタ ハ短調 K.457

昨日ツイッターを見ていて、東京公演のツイートされている方々のを読んで、その音楽をその空間に身を置いて感じてみたいと直感的に想い、それと同時に名古屋行きに向けて動きはじめました。

はじめての宗次ホール。
今年の3月にアーノルド先生が名古屋公演を行ったホールです。
とても素晴らしいホールだったと喜んでいらしたこと、会場入り口でお客様をお迎えされていらっしゃったオーナー様にお伝えしました。
ホールの席の間隔や、膝掛け、そしてプログラムに記載されている「コンサートを楽しむために」と奏者と聴衆両方に対しての気遣い溢れる記載。そういった細やかなところに音楽へのリスペクトに溢れた会場だなという印象を受けました。

今回は240席ほどのソロを聴くにはちょうどよい広さなので、2階席1列目を予約しました。

はじめてライブで聴くリュビモフ氏のピアノ。
ピアノ椅子に座り、しなやかな動きでピアノにタッチしていく様子が印象的で、まるで魔法をかけているかのような感覚に陥りました。手の動きと音が空間へと泳いでいく方向性が見事にリンクしていて、音のもつ生命力を聴覚的にも視覚的にも感じるものでした。私にとってはそれがとても新鮮なアプローチでした。時にはパフォーマンス的なものだと嫌気がさすのですが、リュビモフ氏のそれはすべて音楽の生命力のため、という印象を受けました。
現代のピアノがレジスターを持っているかのような多彩な音色、特に一つ私にとって斬新だったのはピアノソナタイ短調で「ハスキーヴォイス」な音を感じたこと(私の拙い表現力なので、もっと何か違う表現あるのではないか、、、とも思うのですが)。そこにはなんとなくモーツァルトの疲れを感じさせるものがありました。ピアノの音からハスキーヴォイスという言葉が浮かんだのは初めての経験です。そして、繰り返しの際の即興的な装飾。計算されたようなものではなく、本当に自然に湧き出てくるかのようで、ひょっとしたら昨日あの場で生まれてきたのではないか?と思いました。今後は○月○日に〇〇でこのプログラムを演奏すると決められたものではなく、その時自分が弾きたいものを弾きたい時に弾いていきたいと仰ってるのを読んだのですが、そういうのが昨日の即興的演奏からも垣間見れた気さえします。

モーツァルトの作品による表現の可能性の幅広さ、そして奥深さをあらためて感じた演奏でした。リュビモフ氏の演奏は、音楽って移り変わる感情を繊細にも劇的にも語るものだと心の底から感じるものでした。今ここに文章で綴っているけど、結局今日聴いて感じた音楽を私ごときが文章にするのは到底無理だ。深い感動を得た音楽、美術、詩や文学、自然について言葉にするって難しい。心がドキドキするとかキュンと締め付けられるとか、身動きしてないとか、目一杯に空気を吸い込もうと深呼吸してるとか、涙がつたってるとか、自然と笑みがこぼれてるとか、気づけばそんな形で心の内側が表に出てる気がする。

プログラム後半のハ短調の幻想曲あたりから、拍手する音すら現実に戻されるようで、ずっと通して聴きたいと思ったくらいで、最後のハ短調のソナタあたりには深い深い世界に沈んでいっていました。その中で、2楽章のはじめの変ロ長調の部分はこの上なく美しい世界へと引き上げられ救われた想いでした。あの美しい音、歌、心が溶けました。また、K.545の2楽章でg-mollへと移り変わった時の陰翳に富んだ描写は心打たれました。始まりから終わりまでずっとずっとモーツァルトの人生の旅を辿っているようで、一瞬たりとも気を抜くことできなかった。

今日のアンコールはシューベルト即興曲のOp.90-2とショパンの舟歌。モーツァルトの人生の旅路を終えて聴くシューベルトは、深い哀しみと悲痛な叫びが聴こえてきた。そして、最後の最後に演奏されたショパンの舟歌。心地の良い揺れに身を委ね、気がつけば私は両手を顔の前に合わせて、まるで祈っているかのように聴いていました。本当にこの一期一会の音楽に巡り会えたことに感謝と幸せな気持ちに満ち溢れた想いでした。あの美しい響きの調和、多彩な音色、溢れる歌、一生忘れません。

リュビモフ氏の心臓部から一直線に延びたところで、
ただ一人でこの音楽に浸っている気分になった贅沢な一夜でした。
(なんと贅沢でおめでたい妄想!笑)
素晴らしい音楽をありがとうございました。