シューベルト最期の家 ⑴

1040 Wien,
Kettenbrückengasse 6

OPEN:
水・木曜日
10 -13時 & 14-18時

CLOSED:
1月1日、5月1日、12月25日

Schubert STERBEWOHNUNG

ウィーンについた翌日真っ先に行ったのはシューベルト最期の家

到着して翌日に真っ先にここに行ったのには訳があります。
すでに記したように、ここはオープンしている日が水曜と木曜のみ!!!です。
昨年はオープン日をチェックしていなかったので、
残念ながらタイミング合わず外から眺めて「また来ます、、、」と
後ろ髪引かれながら後にしました。

曜日、そして時間必ずチェックして行きましょう。
※13時から1時間休憩

外観

ウィーンの街で建物に赤と白の旗が掲げてあるのをよく見かけます。
これはウィーン市観光局が定めた歴史的建物である印で、
この赤白の旗見かけたらそこに住んでいた人物の名前であったり、
その建物で何があったかなど記されています。
ここにはフランツ・シューベルト最期の家と記されています。

建物扉の上には
1829年11月19日
この建物にて音の詩人フランツ・シューベルト息を引取る

建物の扉を通って入っていきます。
普通の住居用建物の2階(日本でいう3階です)にあるので、右側にある細い階段をのぼっていきます。

前室には当時から置かれているキャビネットやシューベルトの死亡記録、遺品目録、そして公証(髪の毛のメダル付)や絵などが展示されています。

これは「公証」となっています。
内容:達筆すぎて読めない、、、ので省略。
でも、この下にメダルに入っているのはシューベルトの髪の毛です。

寄ってみます

友人との時間でしょうか。立っているのがシューベルトですね。


前室に掲げてあるシューベルト最期の家についての訳です。
意味の補足必要なところは*で記してあります。

シューベルト 最期の家

1828年9月1日に、兄の家に移ってきた31歳のフランツ・シューベルトはすでに病に侵されていた。当時、通りに面して窓のある、小さな部屋に入った。この建物は前年に完成したばかりで、まだ壁の乾ききらないところに、教師・作家・作曲家としての職を持つフェルディナントはその妻と多くの子供達と当時にしては大きな家に「Torockenwohner*」として入居した。この乾ききっていない壁がシューベルトの健康状態を悪化させた可能性はある。

ウィーンにて作曲家としての名声を高めた(特に歌曲の分野で)シューベルトは、1828年3月に楽友協会にて初めてのコンサートを行った(当時の楽友協会は今とは場所の異なるTuchlaubenという通りにあった)。
最後の最後まで彼は作曲活動を行った。病床にいながらも歌曲集「冬の旅」の第2部分の訂正を行い、今となってはスケッチしか残されていないが、そのほか「鳩の便り」を含む新たな創作活動も開始した。

1829年11月19日、この家に越してきてわずか2ヶ月半後に腸チフスにより永遠の眠りについた。2日後にはヴェーリンガー墓地に眠るベートーヴェンの隣に葬られた。
1888年に遺体の残りはベートーヴェンのそれと共に中央墓地へと移動したが(移動時期に数ヶ月の差はある)、現在はシューベルト公園となりヴェーリンガー墓地の墓石は残されている。


*Torockenwohner:当時の建物はセメントモルタルの代わりに安い石灰モルタルを使われることが多く、住める状態になるまで3ヶ月ほどは必要(時期にもよる)それまでの期間、無料または最低限の家賃で人に貸す慣しがあった。人が住むことによって、暖房をつけたり、人が息することで発する二酸化炭素が壁をはやく固めるのに有効であった。その後は通常賃料で賃貸に出される
Wikipediaより一部抜粋

※訳については私自身によるものなので、もし何か違っている点などありましたらお知らせ頂けたら幸いです。

次回は前室に続いてピアノのあるお部屋となります。またあらためて。

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